昨日のエントリにしても某ブログへのコメントにしても、どうも奥歯に物が挟まったような書き方しかできなくてモヤモヤしている。やはり自分自身へのメモとして書いておく。
昨年11月のある一件以来(注:最下段参照)、「丁寧に暮らす」という表現、そして似ているニュアンスの「地道にコツコツ努力」とか「ひとつひとつ努力を積み重ねることが大事」といった類の表現に出会うと、頭の中に≪ちょっと待てよ≫のサインが出るようになってしまった。そういう言葉が胡散臭いとまでは言わないけれど、説得力がないというのか、書いている人自身の言葉ではないから響いてこない。
「地道にコツコツ努力」とか「ひとつひとつ努力を積み重ねることが大事」というのはその通りなので、読む人に心地よくスッと入ってくる。そしてこういう便利な表現は、細かいことを端折ってもなんとなく伝えられる。
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2008年01月24日
2008年01月23日
柔らかな頭と心
自分とは違う発想や考え方をする人が書いたものを読むと、「目からウロコ」だったり「ガツンと一発殴られて」目が覚めたり、目の前が開けたりすることがあります。ブログについて言えば、「読む=インプット」では、自分の考えの裏付をしてくれそうな記事ばかりを選んでしまい勝ち。「書く=アウトプット」でも、おおかたは記事に対する同意・共感の「そーだそーだ」と、中には「ヨイショ」のコメント。それだけを読んで満足していては(もちろんうれしいですが)、他の立場や社会を見るきっかけは失われて、見方や考え方が狭くなってしまいます。
私は自由に生きたいから、固定観念や自ら築いた信念からも自由でいたいと思います。常に「柔らか頭」でいたいものです。
ところが「頭」は柔らかにしていることはできても、困難なのは「感情」からも解放されることです。「その考え方は嫌い、肌に合わない」と、生理的な感情で拒絶してしまうようなことは往々にしてあります。意見がすれ違う人のブログは読まなくなったりします。それで良い人はそれでいいんですけど。私はそういうのも克服したいと思うのですね。
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私は自由に生きたいから、固定観念や自ら築いた信念からも自由でいたいと思います。常に「柔らか頭」でいたいものです。
ところが「頭」は柔らかにしていることはできても、困難なのは「感情」からも解放されることです。「その考え方は嫌い、肌に合わない」と、生理的な感情で拒絶してしまうようなことは往々にしてあります。意見がすれ違う人のブログは読まなくなったりします。それで良い人はそれでいいんですけど。私はそういうのも克服したいと思うのですね。
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2008年01月20日
2007年11月13日
言葉に対する感受性
先日夫が突然「ブログをやってる人って、よくいろいろ書けるよなあ」と言ったので、ブログも(ホームページは知ってます)やっていることは内緒にしている私はヒヤッとした。それは単に読んでいた新聞記事に触発されただけの発言だったのでホッと一息ついて、「文章の巧い下手を気にしなければ、誰だって思ったことを書けるんじゃない?」と答えたのだ。しかし夫は「自分には何も書けない」と言う。夫は子供の頃の作文の時間は苦痛でしかなかったそうで、今でも仕事上の「文書」ではない、個人的な作文をしなければならない状況になると「書けない、書けない」と大騒ぎする。
「作文が好きな人・得意な人・得意じゃなくても書ける人」と「作文が苦手な人・書けない人」つまり「原稿用紙あるいはパソコンを前にして、書くべき言葉が浮かんでこない人」はなぜ生まれるのだろう?
一般的に言われるのは読書量の違い。「上手な文章を書きたければたくさん本を読みましょう」という言説である。日本語は「書き言葉」と「話し言葉」の差異が大きいので、書き言葉特有の表現、言い回しや語彙は書いた文章を読むことで身に付くから間違ってはいない。もちろん義務教育で最低限は身に付くが、豊かな表現力はやはり読書によって培われると思う。しかしこれだけでは納得できない。
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「作文が好きな人・得意な人・得意じゃなくても書ける人」と「作文が苦手な人・書けない人」つまり「原稿用紙あるいはパソコンを前にして、書くべき言葉が浮かんでこない人」はなぜ生まれるのだろう?
一般的に言われるのは読書量の違い。「上手な文章を書きたければたくさん本を読みましょう」という言説である。日本語は「書き言葉」と「話し言葉」の差異が大きいので、書き言葉特有の表現、言い回しや語彙は書いた文章を読むことで身に付くから間違ってはいない。もちろん義務教育で最低限は身に付くが、豊かな表現力はやはり読書によって培われると思う。しかしこれだけでは納得できない。
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2007年10月27日
ネットでの「私」
何事もやってみないであーだこーだ言うのはイクナイことなので、Twitterをもう少し踏み込んで使ってみることにしました。
私の場合ネット活動上の名前つまりハンドルネームを2つ持ち、それぞれ発信する内容によって使い分けています。このブログでのハンドルネーム“Marumameko”と、趣味のウェブサイトなどで使用している本名をローマ字にした“Masako”です。よってTwitterもそれぞれのハンドルネームで登録し使い分けしています。
今までMarumamekoでのTwitterでfollowsも増やさず放置していたわけは、ユーザーに年代差を感じたり彼らの呟きの大半に興味を感じなかったこともありますが、どういうわけだか発言しにくかったのです。発言できない理由は“Marumameko”には実態がないからなのじゃないかと、おぼろげに感じていました。
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私の場合ネット活動上の名前つまりハンドルネームを2つ持ち、それぞれ発信する内容によって使い分けています。このブログでのハンドルネーム“Marumameko”と、趣味のウェブサイトなどで使用している本名をローマ字にした“Masako”です。よってTwitterもそれぞれのハンドルネームで登録し使い分けしています。
今までMarumamekoでのTwitterでfollowsも増やさず放置していたわけは、ユーザーに年代差を感じたり彼らの呟きの大半に興味を感じなかったこともありますが、どういうわけだか発言しにくかったのです。発言できない理由は“Marumameko”には実態がないからなのじゃないかと、おぼろげに感じていました。
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