お知らせ2010.12.01
現在諸事情によりコメントは受け付けていません。

こころの風景の新着記事

2007年11月13日

言葉に対する感受性

先日夫が突然「ブログをやってる人って、よくいろいろ書けるよなあ」と言ったので、ブログも(ホームページは知ってます)やっていることは内緒にしている私はヒヤッとした。それは単に読んでいた新聞記事に触発されただけの発言だったのでホッと一息ついて、「文章の巧い下手を気にしなければ、誰だって思ったことを書けるんじゃない?」と答えたのだ。しかし夫は「自分には何も書けない」と言う。夫は子供の頃の作文の時間は苦痛でしかなかったそうで、今でも仕事上の「文書」ではない、個人的な作文をしなければならない状況になると「書けない、書けない」と大騒ぎする。

「作文が好きな人・得意な人・得意じゃなくても書ける人」と「作文が苦手な人・書けない人」つまり「原稿用紙あるいはパソコンを前にして、書くべき言葉が浮かんでこない人」はなぜ生まれるのだろう?
一般的に言われるのは読書量の違い。「上手な文章を書きたければたくさん本を読みましょう」という言説である。日本語は「書き言葉」と「話し言葉」の差異が大きいので、書き言葉特有の表現、言い回しや語彙は書いた文章を読むことで身に付くから間違ってはいない。もちろん義務教育で最低限は身に付くが、豊かな表現力はやはり読書によって培われると思う。しかしこれだけでは納得できない。

夫は理系だけれど高校生時代から歴史にも関心を深め、歴史書や歴史小説に加えて、推理小説や最低限これだけはみたいな日本の作家の文学書は読んでいたようだ。今でも通勤の電車内読書で本をよく読み、仕事分野の専門書以外の分野の書籍購入も多い。

私はといえば、毎月届く「少年少女世界文学全集」をむさぼり読んでいた小学生時代、大人用に翻訳された「世界文学全集」や学校の図書館で借りた“大人の文学”を背伸びして読んでいた中学生時代、そして好きな文学の傾向や作家が定まっていった高校生時代があった。また私の青春期は「時代の空気」というものが濃かったので文学にだけ溺れずに、それこそマルクスに埴谷雄高、吉本隆明など(理解と読了は別にして・笑)の著作を手にすることもした。ところが、恥ずかしくてもごもごと口篭りたくなるくらい、この数年ほとんど本を読まなくなった。それでも文章を書くことが苦ではないのは、あの頃読んだものを自分の中に取り込んでいたからだろう。

で、夫にも彼の読書体験を通して取り込んだものがあると思うから書けるはずだと言うと、「やはり書けない」の一点張り。夫は「書ける人」と「書けない人」の違いは「感性」だと言う。でも夫だってテレビドラマや映画を観ているとき、感動するシーンでちゃんと感動しているし、感性が貧困なわけではない。

ふと思いついたことがある。夫がネットで検索をするときに、時々的確なキーワードが思いつかないことである。絞込みキーワードに「なんでそんな言葉を入れるかなあ…」と私が思っていると案の定検索に手間取っていて、私が助け舟をだすと一発で望みの情報にヒットする。

夫は語彙が貧困だということもない。いや知識としては私よりずっと知っている。おそらく知識としての言葉が表現としての言葉と結びつかないのだ。本を読んでもその文章・言葉の表現に自分の感受性に響くものが少なくて、作品中の文章表現や言葉を知らず知らずのうちに自分の中に取り込むということがなされていないのかもしれない。つまり表現や言葉に対する感受性が低いのだろうと思う。

では言葉に対する感受性が高い人と弱い人はなぜ生まれるのか?
言葉に対する感受性はどうやって育まれるのか?

答えは見つからないが、考えられることは2点ある。ひとつは幼児期にどれだけ想像力が養われる「言葉」に出会えたか、である。私の場合は母親・父親による本の「読み聞かせ」や、良質の絵本や童話を与えられていたという環境があった。子沢山時代に末っ子として生まれ(しかも双子)、母親が既に40才を越えていた夫にそういう環境はなかったようだ。(参考記事→語り部の必要性
そしてもうひとつは、感受性が高い青春期の読書の内容。読書という擬似体験であれ、感性を揺さぶられることで心は豊かになり、言葉という表現手段の感受性も高くそして磨かれていくのではないか。
ただ、生きていくことでの実体験もまた、想像力・創造力の源になるうるし、一生通じて書籍に限らず「表現としての文章を読む」こともまた感受性を高めていくとは思う。

ところで、ネットで一個人が書いたものに感動したりしなかったり、それどころかこき下ろしたり、傷ついたり傷つけられたと思ったり(注:内容・主張ではなく、あくまで表現方法に対して)…という事象もまた、言葉に対する感受性の差異が少なからず影響しているように思えてならない。感受性の違いとは個人差はもとより、若い人は感受性が鋭いけれど実体験の積み重ねが少ないので幅が狭いということも含めてである。

他人の「表現」に名文だという感想を持つ人間もいれば、気障な表現だと感じる人間もいて当然である。同じ人間でさえ読む時期・気分で受け取り方が変わってくることもある。だからソーシャルブックマークコメントなどでの「感想」に異を唱えたり、他人の感想を気にするようなことは無意味なことだと私は思っている。
posted by Marumameko at 18:12 | Comment(6) | TrackBack(2) | メモみたいな このエントリーを含むはてなブックマーク
この記事へのコメント
作文が好きな人嫌いな人・・と同時に、表現することを求める人と、別に表現する必要性を感じない人・・というのもありますよね。

理科系の勉強に強い人の文章は、ムダがなくて的確な場合が多い気がします。観察したり実験したりのレポート的なもの・・書くべき対象がはっきりしているものに強い。でも、自然発生的な【表現したい!】という気持ちから書くような文章はニガテなのではないかな。

また、表現したい!と強く思う場合でも、それを表わす技量を持ちあわせていないと、人から見たとき、『何これ?』というものになってしまうのでしょうね。

わけわからんことを書くことの多い私は、『より具体的であれ!』と思うのだけれど。

熟慮する粘りもまだまだ。

Marumamekoさんの論理性に、しばしば圧倒されてしまのも、この粘りが不足しているせいだな。基礎体力をつけて、また伺います・・^^;
Posted by ぴとこ at 2007年11月13日 23:36
そうですね。夫も「書きたいことがない」と言います。
しかし旅行に行ってきれいな景色に感動したり、社会・政治などに意見もあるわけで
そのまま書けばいいじゃんと私など思ってしまいますが
彼は「文章」にまでして表現したい欲がないということらしいです。
あ、でも理系だからといって夫はその分野の作文がデキルわけでもないですよー。
やはり文章構築力には個人差があるようで(笑)

私自身もそれは苦手で、論理的なんてとんでもない(^^;
ただし私はあーでもないこーでもないとしつこく考えてそれなりに練ってから書くけど、
ぴとこさんは思いついたら書く、書きながら考えるタイプですよね。
書きながら考えていったん書いた記事も消しちゃう(笑)
ブログはその思考過程も残しておいたほうが、自分にとっても読む人にとっても面白いしプラス面があると思うな。
できたら消さないで〜(笑)
Posted by Marumameko at 2007年11月14日 00:33
夫は完全理系の脳みそです。

>理科系の勉強に強い人の文章は、ムダがなくて的確な場合が多い気がします。

夫はデータを絡めての文章なら得意。
目的があるとすごく強いんですよね。
理路整然と説明がよくできます。
ただ、やっぱり、「書きたい」とは思わないみたいです。

子供のころの環境が左右するってとても興味があります。
今はすずはせっせと図書館で本を借りてきて、本を読むけど、高校生になるころ、はたして本を読むのか。。。
電車通学でもないと、読まないのかもしれないなあ。。

ぴとこさんのプロセス。私も興味あります。
Posted by いく@しずおか at 2007年11月14日 09:46
理系男性でもブログを書きまくっている人もおおいと思うのですが。
違いはなんだようね。

子供の頃に読書習慣が付くと、大人になっても本好きなんじゃないかな。
高校生の頃にたくさん本を読んでほしいけど
昔と違い今の高校生は忙しいし、世の中面白いものが増えてるし。
私の高校生の頃にパソコンが普及してたら
私もあれほど本を読まなかったかもねえ。
Posted by Marumameko at 2007年11月14日 16:32
この記事を読んで、『インプットとアウトプット・右脳と左脳の関係』はどうだろうと思いました。
それと、ぴとこさんのリズムや色や匂いを感じることの出来るぴとこさんの文章は、芸術作品のようなものではないでしょうか?芸術家ぴとこさんは、消すこともありだと私は思います。

ううっ、このコメントに小一時間ですよ私。
すらすら書ける能力が欲しいです。
Posted by ももちゃん at 2007年11月14日 16:46
実はトラックバック先の記事を読んで「物事の本質を捉えるのが苦手」という提起から
論理を捉える脳・表現(アート)としての言葉を捉える脳ということを考えていました。
専門的なテキストに当たってみないとなんともいえませんが
そう考えるとスッキリします。

夫との会話からこのテーマを考え始め、初めは「本をたくさん読むと作文が得意になる」だけじゃ何かが足りないと思い、そのうち「言葉に対する感受性」に気がついて、そしたらテーマがアチコチ(幼児期の「読み聞かせ」効果・ブログ界との関連)に広がってしまい、まとめるので精一杯でした。切り詰めたこともあります。
このテーマ、書いてしまってから一筋縄じゃいかない、いろんなテーマを孕んでいると気がつき後悔してます(笑)

で、ブログでも芸術作品なら本人が消すこともOKと、ね。
もともと記事を削除するのは本人の自由なのですが
思考の変遷をそのままにしておくと、あとあと自分が面白いし
読んだ人との意見交流で自分の考えもふくらむと思うよという提案なんですけど。
しかし芸術的センスの元に書かれる記事ならそういう論理も通じないわけで…
う〜ん…なんか面白い提起ですね。
また考えなくちゃいけないテーマの提起をありがとう(笑)
こちらは何日間も考えて2時間くらいかけて書いたので
ひょひょっと5分でコメントされちゃうよりうれしいですよー(^^)
Posted by Marumameko at 2007年11月14日 21:12

この記事へのトラックバック

言葉と人間
Excerpt: 言葉に対する感受性 恐らくは、物事の本質を捉えるのが苦手と言うことなんだと思っています。検索エンジンを使う時にキーワードが浮かばないというのが典型的で、調べたい事そのものの本質を捉えきれていない..
Weblog: Kazu'Sの戯言Blog(新館)
Tracked: 2007-11-14 14:06

感受性を育んできた日本語の「非論理性」
Excerpt: http://marumameko.sblo.jp/article/6739061.html では言葉に対する感受性が高い人と弱い人はなぜ生まれるのか? 言葉に対する感受性はどうやって育まれるのか?..
Weblog: Shisuya_Kitoの日記
Tracked: 2007-11-15 00:05

最近のトラックバック